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徳島市空襲体験談:湯浅 喜三子

最終更新日:2016年4月1日

 阿南市福井町 湯浅 喜三子

 私の古里は、桑野駅から徒歩で長い堤防を南へ四キロメートル強、山口町の中心地です。北側の高い山は「そでがたき」というのが太古からの名前です。石灰岩の白い岩肌が目につきます。大樹は生えず、殺風景の頂上が高くそびえています。尾根を境に裏側は長生町明谷で、梅林の名所として一般に知られています。石灰岩の端に深い穴があって石を投げると「かんから」と音がするので、かんから穴と言っていました。
 大正十四年生まれの私が二十才のときの、昭和二十年七月四日未明、「午前四時頃推定」です。家の裏の北側になる石灰岩の真上にかけ、天が真っ赤に見えた瞬間、驚いて体がふるえ、高鳴る胸を禁じ得ませんでした。早く消えたらよいのにと一人眺めて一心に祈るばかりで、天の色は赤く変わりません。早く空が明るくなって白むのを待つばかりでしたが、見極めて家に入りました。
 新聞やテレビ等は戦時中見たくとも、家庭の経済から見ることができませんでした。
 昭和十九年四月から、長生・宝田・中ノ島・横見の四町村が合併し、中央青年学校が西方で家を借りて県道ぞいに事務所を開設していました。そこへ、私も頼まれて、微力ながら勤務していました。あるとき、小松島の東洋紡績で一ヶ月間三十名の付き添いに行ったことがありました。食糧難の時代でしたので、日常は、岡の川の端の堤防で、さつま芋や野菜等を作っていました。
 昭和二十年の晩秋のある日、徳島市爆撃後の悲惨さを知りたく、七名で羽の浦駅まで徒歩で行き、徳島へ向かいました。一機の米軍B29爆撃機が恐ろしくて防空壕に隠れていた様子を見て、徳島市民は大変ひどい目に遭ったのだと想像できました。私も心が痛みました。店に売っているものは「切干大根」や「さつまいも」が目につきました。食事をしに行くと、巻きずしがありました。買って食べると、「ご飯」の米の代わりにうどんをのりの上に並べ、玉子一枚と野菜を置き、上手に巻いたものでした。よく考えていると思いました。味はよく、珍しかったです。「せともの屋」では、お茶わん二つが十円でした。
 戦時中は、砂糖も、塩、しょうゆ等も常会で分けていました。お金も一時封鎖。お米より麦の方が多く使われていました。
 兄が召集されたので、男乗りの自転車を乗りやすいように車体を自転車屋で修理してもらい、山口町から桑野駅まで自転車に乗り、汽車通学しました。寺島本町に村崎裁縫学校と職業学校がありました。昭和十六年二月八日に宣戦布告。日が短いので夕方五時すぎになると、汽車の中は灯火管制のため、灯が外にもれないように真下だけのあかりにしていました。そうした通学でした。
 勤労奉仕や学徒隊陸軍病院の慰問等、色々な勤めがあり、銃後をかたく守っていましたが、昭和二十年八月十五日、終戦となりました。
 いつまでも平和の国で暮らせますよう、心からお祈り致しています。

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